信じて信じて信じぬきたい

神様がいるなら、この世界を平等にしなかった理由を知りたい。

…というか神様の世界が「平等」ではないから人間の世界も「平等」ではないのだろうか?


差別主義者でも平等主義者でもないけれど、基本的には「差」がこの世を支配している。
お金持ちか?かっこいいか?力はあるか?頭がいいか?かわいいか?優しいか?…
その差が個性でもあり、生まれ持ったスキルであり、そして力である。


差まではいいだろう。ただ「差の差」がこの世をだめにしていると思う。
差を差別するのである。個性の弾圧である。個性の迫害である。
これは差別によっても行われるが、真の意味では「平等主義」がこの「差の差」を生んでいる。
差は認められてこそ力となる。そして迫害される要因にもなってしまう。
差は両刃の剣とでも言えるかもしれない。まだね。
しかし「差の差」は、百害あって一利なし。何も生まない。


何も生まない事が一番恐ろしい。


意味の無い事はあってはならないのだ。

さて、具体的に「差の差」が何かというと、「差を認めないこと」である。
差があっても見ないのである。見ないようにしている。
そして差が無い事が一番の善であるとしている。

本当は差があるものも平等のもとにすべてじっぱひとからげにされる。
良い差、悪い差含め差がなくなる。
本当はこれが良い事のように思える。


差を認めずして人間は成長できないと思う。
平等主義は成長をとめる。
何も生まない。

悪を生まない事が善ではない。
悪がないと善も生まれない。

人は差別して生きている。いや、差があってこそ生きられる動物だ。
ただ、いわれの無い差は無くすべきだ。差別的なものは排除せよ。

平等主義は無個性を生む。コピーを生む。芸術の芽を摘む。


サイテーだ。


現代社会において、無個性はだめだという風潮にはあるが、
どうしても日本人の気質から「変わり者」=「変人」は排除されるべき対象とされる。


私は自分を正当化するためにこういう文章を書くのだが、誰も同調はしてくれないだろう。
同調しなくていい。時には同調して欲しい時もある。だけど、私にはそんな友人もいるのかどうかわからない。
(いても実際いるというと逆に信じられなくなるからこういう言い方をする)
自分は信じる事ができるのに。


日本に生まれたくなかったとは思わない。ただこの社会は築きなおすべきだ。
優しさに満ちた世界を…時には厳しく時には優しい思いやりを。
信じる事ができる世界を。


↑これこそエゴか。


久しぶりに絵を描く事に専念したいと思う。
基本的な地盤を確認したい。